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 通州事件①

2012-08-27

アメーバの方でアップしていた記事が表示されなくなってしまったので、こちらに貼り付けます。
皆さん、お久しぶりですw

ピグにハマってアメーバに行ったきり、こちらへなかなか戻ってこなかったですが、今はあっちのブログ、政治が中心になってしまいました(爆)
東日本大震災以来、民主党の動きが怪し過ぎたので、いろいろ調べるうちに、日本がどんな危機的状況にあるかを知りました。
敗戦後の日本ではずっと反日左翼がGHQの洗脳政策を引継ぎ、中国や朝鮮半島に都合のいい歴史をベースに教育やマスコミの情報、すべてが操作されていたことを知りました。
真実の歴史とは真逆の歴史です。
マスコミの言う「アジア諸国」が「中国と北朝鮮・韓国限定」でしかないことも、この一年の間に知りました。
多くの日本人は偽歴史を信じ込まされ自虐史観というものが植えつけられ、最近では高校生が修学旅行で行った韓国で土下座して謝らされたり、日本人を追い詰める勢力が台頭しすぎていることも知りました。
こちらのブログにも当初は政治ネタをアップしていこうと思っていたのですが、限られた時間の中では2つも管理出来ないので、主にアメブロの方で書いていましたが、最近アメブロでは時に強制退会させられたり、記事を削除されたり、私のように外に表示されなくなったりすることがポツポツ出てきています。
なので、もしかしたら同じ記事をアップするようにした方がいいのかも知れませんね。
こちらのブログでは私の能天気記事やハムスターや猫、スピリチュアルとカテゴリーに節操がないのですが、益々節操がなくなる予感です(((( ;°Д°))))
が、こちらはどちらかというと倉庫的に使うかも知れないので(消されたり表示できなくなった場合の予備w)、コメント欄は閉じようと思います。
では、以下http://ameblo.jp/mameham/からのコピペですが・・・。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

支那について調べ始めた最初の頃に通州事件というものを知りました。
一番最初に見たのはYou tubeにアップされているもので
残酷としか言いようのない写真が何枚も出てきて
正直・・・人間がこんなことできるのだろうかと目を疑うようなものばかりでした。
今回アップするのは以前観たものと違う動画ですが
内容は同じ写真が使われているので、他にも同種の違う動画があるようですね。
心臓の弱い方、体調の悪い方、妊婦・・そして霊的に敏感な方(多分)にも
下の動画やリンク先の画像を見ることはお勧めしません。
リンク先の文章だけ、拾っておきますので、そちらをご覧くださいね。
(その文章だけでも大変ショックな内容になりますので影響受けやすい方はスルーした方がいいかも・・
スルーされる方でも「通州事件まとめ」は安全だと思うので、そちらを読んでくださいねw)





動画の続きの文章が↓こちらにあります。(※ショッキング画像あり。要注意)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html


(以下、上のリンク先から転載)

【通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】
昭和12(1937)年7月29日、北京の西50キロにある通州市において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争のきっかけのひとつになったともいわれる「通州事件」です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生によって、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。
支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみもなく、屍体までもいたぶった。
ようやくかけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状でした。

通州事件を、私達日本人は決して忘れてはいけません。
なぜなら、この事件は、一から十まで全て事実だからです。

以下は、その通州事件の体験者であるSさんの体験談です。

~~~~~~~~~
【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。

そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。

それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。

そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。

それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。

私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。


長いので通州事件②につづきます。

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