2007-11-08
えー、今回も暗い話で申し訳ございません
今回は特に親の恥をさらす、非情な娘でございます。(ついでに書いておくと次回もです)
自分でもここまで書く必要あるのか~?と、思いながら書いています。
多分、両親ともに天国で『こ、こいつは~~~』と思っているのではないかと想像します。
で、フォローになるかどうかわかりませんが、今回は数少ない(笑)楽しかった思い出も先に書いておこうと思います。
私が小学校3~4年ぐらいではなかったかと思いますが、ある日父がピストルのおもちゃを買ってきました。駄菓子屋でも売っているような銀玉鉄砲です。
何をするのかと思ったら、家の中で銃撃戦が始まりました。
向うとこっちに分かれて、互いにフトンを小山のように重ねて身を隠し、西部劇の撃ち合いさながらにありったけの銀玉を撃ちまくるのは大変楽しかったのです。
母は後始末がどうのと言っていましたが、父以下私たちは、ぜんぜん聞いてませんでした。
そのうち母も笑いだす始末。
玉が全部なくなると『玉拾いタイム』をかけて、これも相手より沢山拾おうと競争でした。
父は劣勢になると奇襲をかけてきて、私たちの服の中に撃ちこむという卑怯な方法に出ていましたが、一旦学習すると私たちも負けずとやっていました。
キャーキャー大騒ぎしながら、かなりのハイテンションで楽しんだ自分を覚えています。
きっと他にもっと楽しかった出来事があったんだろうなと思います。
ただ重苦しいことが多かったので忘れてしまっているのだと思います。
今回は特に親の恥をさらす、非情な娘でございます。(ついでに書いておくと次回もです)
自分でもここまで書く必要あるのか~?と、思いながら書いています。
多分、両親ともに天国で『こ、こいつは~~~』と思っているのではないかと想像します。
で、フォローになるかどうかわかりませんが、今回は数少ない(笑)楽しかった思い出も先に書いておこうと思います。
私が小学校3~4年ぐらいではなかったかと思いますが、ある日父がピストルのおもちゃを買ってきました。駄菓子屋でも売っているような銀玉鉄砲です。
何をするのかと思ったら、家の中で銃撃戦が始まりました。
向うとこっちに分かれて、互いにフトンを小山のように重ねて身を隠し、西部劇の撃ち合いさながらにありったけの銀玉を撃ちまくるのは大変楽しかったのです。
母は後始末がどうのと言っていましたが、父以下私たちは、ぜんぜん聞いてませんでした。
そのうち母も笑いだす始末。
玉が全部なくなると『玉拾いタイム』をかけて、これも相手より沢山拾おうと競争でした。
父は劣勢になると奇襲をかけてきて、私たちの服の中に撃ちこむという卑怯な方法に出ていましたが、一旦学習すると私たちも負けずとやっていました。
キャーキャー大騒ぎしながら、かなりのハイテンションで楽しんだ自分を覚えています。
きっと他にもっと楽しかった出来事があったんだろうなと思います。
ただ重苦しいことが多かったので忘れてしまっているのだと思います。
私が父に心底、失望したのは小学2年生の時でした。
ある日、学校で授業を受けていると急に目の前の視界が黄色く歪んできました。
目に見えるものがグニャ~と歪む感じが不安で、いきなり立ち上がりフラフラしながら教壇の方へ歩いていました。
先生がどうしたのか聞きますが、その頃はまだまだ自分の感じていることを表す言葉を見つけるのに時間を要する(人の4~5倍はかかったかも…)時期だったし、その言葉を探す余裕がありませんでした。
1年生の時は若くて優しい女の先生でしたが、2年生になって担任だけ代わり、怖くて厳しい女の先生になりました。
「どうしたのかハッキリ言いなさい!」と急かされ、つい「お腹が痛い」と言ってしまいました。とっさに、それしか浮かばなかったのです。
とにかく保健室に連れて行かれ、それから「寝冷えでもしたのだろう」ということになり、クラス委員に家の近くまで送ってもらって家に帰ってきました。
家の中に入るとなぜか父がいました。
父はお酒を飲んでいて、もうすでにベロンベロンに酔っ払っていました。
父は私を見るなり「学校はどうしたんや。」と言いました。
「具合が悪くなったんで早引けした。」と言うと、
「嘘つけ!本当は仮病やろ!」
そう言うなり、いきなり私の体を畳の上に押さえつけました。
「嘘なんかいうてない!本当に具合悪かったんや!」
そう言っても信じてくれません。
父は私の腕を後ろ手に捻じり上げ力を強めていきます。
「本当のことを言わんともっと痛いぞ!」
最初は抵抗して「本当や!」と言っていましたが、だんだん腕が痛くなってきますし、ふとやけっぱちな気分になりました。なんだかもう、どうでもいい気分です。
「そうや!仮病つこたんや!」
そう叫ぶと父はパッと手を離しました。そして、
「ほうれ見てみぃ。お父ちゃんに嘘ついても、すぐに分るんやぞ。」と言って笑った父の顔は、この世でもっとも最低の人間の顔に見えました。
私は気分が悪かったのも忘れて、外へ飛び出していました。
(何が嘘ついても分るや!本当のこと言ってても分かってへんやないか!!!)
子供心に悔しくて許せなくて、いつも遊んでる空地の身の丈の長い草の中に飛び込むと大声を出して泣きました。
いつも何かあると、そこで泣いていました。
そこで気のすむまで泣いて、気持ちが落ち着いてくると、草が風に揺れる様子や、その草の上をチョコチョコ歩く虫たちや、そして仰向けになって見上げる空の雲、頬をなでる風たち、そのすべてが「許してあげなさい」と言っていると感じたものでした。
私は「うん。」と答えて家に戻っていくのが常でした。
しかし、この時ばかりは私は「許してやるもんか!」と思いながら泣いていました。
だからかどうか、あの優しい囁きは沈黙したままでした。
この時以来、それまでは無条件に持っていた信頼の情のようなものを、父に対しては失くしてしまいました。
私が母に対して失望したのは、小学4年生か5年生の時でした。
私は小学校で誰も友達がおらず、いつも一人でポツンとしていましたが、絵を描くのが好きで学校でもよくノートに絵を描いていました。
漫画家になりたいと思い始めたのは1年か2年の時でしたから、ずっと描いていました。
そして私が絵を描いていると、それを見たクラスメートが何人か寄ってきて口々に褒めてくれるのが、ささやかな幸せでした。
ある時、クラスメートの一人が、こんなことを言いました。
「私にだけ絵を描いてくれたら友達になったるよ。」
私はあまり考えずただ『友達になったる』という言葉につられて、簡単に約束してしまいました。
少しの間はその子にせがまれるまま絵を描いていましたが、ある時別のクラスメートが、
「私にも一枚描いて欲しい。」と言いました。
私は何も考えず「うん。いいよ。」と、その子にも絵を描きました。
すると当然のこと、最初の子が怒りました。
でも、私はどうしても自分のしたことが悪かったとは思えず、その子に謝りませんでした。
でも、その子のことも嫌いではありません。
何とか仲直りはしたいのでした。
でも、どうしたら仲直りが出来るか分からず、困り果てて母に相談しました。
母は言いました。
「アホやな。そんなん謝っといたらええねん。たとえ腹の中で舌出しとっても、顔は笑って相手に合しとったらうまいこといくんや。」
何も考えてない私は、
(そうか!謝ったらええんや!)と思い、次の日早速謝りに行きました。
すると、その子は言いました。
「本当に自分が悪かったって思ってるんやな?」
何も考えてないけど正直な私は答えました。
「ううん。ぜんぜん。」
その子は口から火を吹かんばかりに怒りました。
「自分が悪いと思ってないのに、なんで謝るんやー!!!」
何も考えていなかった私は、そこで初めてハッとしました。
(この子の言ってることの方が正しい…!)
それまでの私は、どうしようもなく困ったことで自分が言葉で説明可能な時は母に相談し、母の言うことを何の疑いもなく信じ、その通りにやっていたのでした。
でも、この時初めて『親だからといって、正しいことを教えてくれるとは限らない』ということを知ったのでした。
いや、むしろ、母の言っていたことの意味をきちんと考えるとかなり怪しい。当てにならない。そう思いました。
そして、これからは自分できちんと考えて自分で判断しなければいけないんだと思うと途方もなく不安でしたが、そうするしかないのだと思った一件でした。
この時以来、母の言葉も鵜呑みにしなくなりました。
子供の時はこれらの出来事、それ以前の出来事、それ以降の出来事のほとんどが、失望を促すものでしかありませんでした。
いつしか両親の姿というものは反面教師としてしか見られなくなっていきましたが、そのおかげで私は自分でものを考えるということ、自分で判断して結論を出すということなど、生きていくのに本当に必要なものを身につけることが出来ていったのだと、後年やっと気が付きました。
長い間悩みの種であった家庭、両親でしたが、今では両親がしてくれた良いことも悪いこともすべてひっくるめて、私には必要なものだったのだと理解しています。
それは『人はなぜ生まれてくるのか』『人生とは何なのか』といった長年持ち続けた疑問に対して『人は魂修行のために、この世に生まれてくる』『この世とは魂修行の場であり、人生は一冊の問題集である』と答えてくれた、とある方に出会って、やっと導き出せた結論でした。恨んだこともあったけど、両親はグータラ無駄に生きたわけではなかった。
また、私も姉もよく口にした言葉でしたが、
「産んでくれなんて頼んだ覚えはない!」という言葉に対して、
『子供は両親を選んで生まれてくる』ということも教えられました。
子供は自分の魂修行に必要な環境・条件などを吟味し、親となる方に「あなたの子供として地上に招いてください」と、お願いして生まれてくるのであって、たまたまってのはないのだそうです。
そんな記憶もないし、確かめることもできないけど、自分の性質やこれまでに身につけてきたものを考えると、そう信じても良いなと思うのでした。
多分、私の場合、かなり脳天気な感じがしますので、程よい刺激がないと物事を考えずアッパラパーに育つ可能性も十分あったような気がします。(母に失望する前の私の様子に、その片鱗が…)
あんだけ悩みながら(そりゃ何十年も引きずりましたし)今現在けっこう脳天気ですから、この両親を選んだのは大正解だったかもと思います。
ある日、学校で授業を受けていると急に目の前の視界が黄色く歪んできました。
目に見えるものがグニャ~と歪む感じが不安で、いきなり立ち上がりフラフラしながら教壇の方へ歩いていました。
先生がどうしたのか聞きますが、その頃はまだまだ自分の感じていることを表す言葉を見つけるのに時間を要する(人の4~5倍はかかったかも…)時期だったし、その言葉を探す余裕がありませんでした。
1年生の時は若くて優しい女の先生でしたが、2年生になって担任だけ代わり、怖くて厳しい女の先生になりました。
「どうしたのかハッキリ言いなさい!」と急かされ、つい「お腹が痛い」と言ってしまいました。とっさに、それしか浮かばなかったのです。
とにかく保健室に連れて行かれ、それから「寝冷えでもしたのだろう」ということになり、クラス委員に家の近くまで送ってもらって家に帰ってきました。
家の中に入るとなぜか父がいました。
父はお酒を飲んでいて、もうすでにベロンベロンに酔っ払っていました。
父は私を見るなり「学校はどうしたんや。」と言いました。
「具合が悪くなったんで早引けした。」と言うと、
「嘘つけ!本当は仮病やろ!」
そう言うなり、いきなり私の体を畳の上に押さえつけました。
「嘘なんかいうてない!本当に具合悪かったんや!」
そう言っても信じてくれません。
父は私の腕を後ろ手に捻じり上げ力を強めていきます。
「本当のことを言わんともっと痛いぞ!」
最初は抵抗して「本当や!」と言っていましたが、だんだん腕が痛くなってきますし、ふとやけっぱちな気分になりました。なんだかもう、どうでもいい気分です。
「そうや!仮病つこたんや!」
そう叫ぶと父はパッと手を離しました。そして、
「ほうれ見てみぃ。お父ちゃんに嘘ついても、すぐに分るんやぞ。」と言って笑った父の顔は、この世でもっとも最低の人間の顔に見えました。
私は気分が悪かったのも忘れて、外へ飛び出していました。
(何が嘘ついても分るや!本当のこと言ってても分かってへんやないか!!!)
子供心に悔しくて許せなくて、いつも遊んでる空地の身の丈の長い草の中に飛び込むと大声を出して泣きました。
いつも何かあると、そこで泣いていました。
そこで気のすむまで泣いて、気持ちが落ち着いてくると、草が風に揺れる様子や、その草の上をチョコチョコ歩く虫たちや、そして仰向けになって見上げる空の雲、頬をなでる風たち、そのすべてが「許してあげなさい」と言っていると感じたものでした。
私は「うん。」と答えて家に戻っていくのが常でした。
しかし、この時ばかりは私は「許してやるもんか!」と思いながら泣いていました。
だからかどうか、あの優しい囁きは沈黙したままでした。
この時以来、それまでは無条件に持っていた信頼の情のようなものを、父に対しては失くしてしまいました。
私が母に対して失望したのは、小学4年生か5年生の時でした。
私は小学校で誰も友達がおらず、いつも一人でポツンとしていましたが、絵を描くのが好きで学校でもよくノートに絵を描いていました。
漫画家になりたいと思い始めたのは1年か2年の時でしたから、ずっと描いていました。
そして私が絵を描いていると、それを見たクラスメートが何人か寄ってきて口々に褒めてくれるのが、ささやかな幸せでした。
ある時、クラスメートの一人が、こんなことを言いました。
「私にだけ絵を描いてくれたら友達になったるよ。」
私はあまり考えずただ『友達になったる』という言葉につられて、簡単に約束してしまいました。
少しの間はその子にせがまれるまま絵を描いていましたが、ある時別のクラスメートが、
「私にも一枚描いて欲しい。」と言いました。
私は何も考えず「うん。いいよ。」と、その子にも絵を描きました。
すると当然のこと、最初の子が怒りました。
でも、私はどうしても自分のしたことが悪かったとは思えず、その子に謝りませんでした。
でも、その子のことも嫌いではありません。
何とか仲直りはしたいのでした。
でも、どうしたら仲直りが出来るか分からず、困り果てて母に相談しました。
母は言いました。
「アホやな。そんなん謝っといたらええねん。たとえ腹の中で舌出しとっても、顔は笑って相手に合しとったらうまいこといくんや。」
何も考えてない私は、
(そうか!謝ったらええんや!)と思い、次の日早速謝りに行きました。
すると、その子は言いました。
「本当に自分が悪かったって思ってるんやな?」
何も考えてないけど正直な私は答えました。
「ううん。ぜんぜん。」
その子は口から火を吹かんばかりに怒りました。
「自分が悪いと思ってないのに、なんで謝るんやー!!!」
何も考えていなかった私は、そこで初めてハッとしました。
(この子の言ってることの方が正しい…!)
それまでの私は、どうしようもなく困ったことで自分が言葉で説明可能な時は母に相談し、母の言うことを何の疑いもなく信じ、その通りにやっていたのでした。
でも、この時初めて『親だからといって、正しいことを教えてくれるとは限らない』ということを知ったのでした。
いや、むしろ、母の言っていたことの意味をきちんと考えるとかなり怪しい。当てにならない。そう思いました。
そして、これからは自分できちんと考えて自分で判断しなければいけないんだと思うと途方もなく不安でしたが、そうするしかないのだと思った一件でした。
この時以来、母の言葉も鵜呑みにしなくなりました。
子供の時はこれらの出来事、それ以前の出来事、それ以降の出来事のほとんどが、失望を促すものでしかありませんでした。
いつしか両親の姿というものは反面教師としてしか見られなくなっていきましたが、そのおかげで私は自分でものを考えるということ、自分で判断して結論を出すということなど、生きていくのに本当に必要なものを身につけることが出来ていったのだと、後年やっと気が付きました。
長い間悩みの種であった家庭、両親でしたが、今では両親がしてくれた良いことも悪いこともすべてひっくるめて、私には必要なものだったのだと理解しています。
それは『人はなぜ生まれてくるのか』『人生とは何なのか』といった長年持ち続けた疑問に対して『人は魂修行のために、この世に生まれてくる』『この世とは魂修行の場であり、人生は一冊の問題集である』と答えてくれた、とある方に出会って、やっと導き出せた結論でした。恨んだこともあったけど、両親はグータラ無駄に生きたわけではなかった。
また、私も姉もよく口にした言葉でしたが、
「産んでくれなんて頼んだ覚えはない!」という言葉に対して、
『子供は両親を選んで生まれてくる』ということも教えられました。
子供は自分の魂修行に必要な環境・条件などを吟味し、親となる方に「あなたの子供として地上に招いてください」と、お願いして生まれてくるのであって、たまたまってのはないのだそうです。
そんな記憶もないし、確かめることもできないけど、自分の性質やこれまでに身につけてきたものを考えると、そう信じても良いなと思うのでした。
多分、私の場合、かなり脳天気な感じがしますので、程よい刺激がないと物事を考えずアッパラパーに育つ可能性も十分あったような気がします。(母に失望する前の私の様子に、その片鱗が…)
あんだけ悩みながら(そりゃ何十年も引きずりましたし)今現在けっこう脳天気ですから、この両親を選んだのは大正解だったかもと思います。